なんて言ったらいいかでおおもめ

アレクサンダーテクニークのクラスで
教える練習、懲りずに挑戦中

で、「教える」んじゃないんだ,私にとっては!
というところでまだ右往左往してますが
ちょっとずつ、その古い習慣を書き換えております

今日は、「自分の面倒を見る」っていうのが
具体的になんなのか、を言葉にしようとして
みんなで大もめ(すごくおもしろかった)。

ask
let
wish
とか、英語でもいろいろあるし
どう言ったらいいのかな〜って
あまりにもぐるぐるしてしまって、言葉で言うことの限界にまたげんなり。

そういえば昨日はシャシー先生が、パソコンのソフトが便利すぎて、
その機能に頼ってしまうことで、かえって制限を受けてしまう、
というお話をしてました

音楽と楽譜についても、同じ問題がよく言われますね
楽譜で音楽を現すことの限界
私は楽譜から、音楽を作ることに慣れてしまっていて
自分でも気づかないうちに
その制限を受けていると思います

でも、制限は外すことができる。
空っぽになって聴いてみると,ちゃんと入ってくる
ただ、それを認識するときに、どうしても自分の使いやすい方法を使うので
私の場合やっぱり、楽譜の知識は影響していると思います

アウトプットするとき(演奏する時)にはどうしても、
聴いたままの音にできないことが多いので(身体的、技術的な問題もあり)
音を聴きながら,修正する作業(いわゆる練習)が必要になるわけですが
そのときに,ピアノで身につけた演奏練習のやり方は、とても役に立ってくれています。

さて
「自分の面倒を見る」ときに、私は自分に何ていうか?
実は言葉では言っていません。
クラスでは、便宜上言葉でも言いますが
実は言語化の前のところが、自分にとっては大事。

言語化以前、という段階がある、というのは
失語状態という体験が、意外なところで役に立ってる

それが改めてわかった今日でした。
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by e-t-pf | 2015-07-03 00:07 | アレクサンダーテクニーク | Trackback | Comments(0)  

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